空港で待っていたのは…
未来:アメリカでどんな大きな転機があったのでしょうか?
空港に着いたら、身長2mくらいある僕にそっくりな人が、じっと僕を見ているんです(笑)。それで「あ~、これはひょっとしたら…」と思っていたら、そのままやってきて強くハグされて。ハリウッドで俳優をしている、お父さんでした。
未来:アメリカに行くという時点で「会えるかな?」とは思わなかったのですか?
バックパッカーのように1週間過ごすつもりだったので、全然思っていなかったですね。それで「これからどうするんだ?」って聞かれて「ホテルも取ってないし、これから探そうかな」と言ったら「だったらウチに泊まって行けよ! 旅費も浮くし」となって、泊めさせてもらうことになったんです。
それで帰る数日前に、金色のネックレスつけてジャージにセカンドバックというヤンキーファッションでスラム街を歩いていたら「お前、いいもの持っているな」って声をかけられてボコボコにされました。
そのときにパスポートも盗まれて「再発行に1年かかる」と…。 でも僕がリンチされたのも見た目のせいだし「もしかしたら1年帰れないってのも神様がくれた時間なのかも。俺も生まれ変わっちゃおうかな」と思って、眉毛を生やしてパンチパーマも坊主にして、生まれて初めてジーンズを買いに行って。
未来:スラム街でボコボコにされていなかったら、そのまま帰っていて状況が変わらなかったかもしれません。本当に人生は何が災いで何が幸せのきっかけになるかわからないですね。
父との2人旅
パスポートの再発行待ちで1年間、お父さんと暮らすことになって、お父さんから「せっかくこっちにいるだろ。お前ら家族はみんなアメリカにいるんだから会いに行くぞ!」とシカゴにいるおばあちゃんの家に行くことにしたんです。
LAからシカゴまでは飛行機で行く必要があるくらい、遠いんです。でも父は「せっかく時間があるんだから、飛行機になんか乗ったらもったいないし、アメリカのいろんなところに立ち寄って泊まりながらシカゴに行こう」と提案してきて、僕もそれに乗りました。
身長2mと身長185cmのまあまあ大きな男が、フォルクスワーゲンのビートルに窮屈に乗って(笑)。荷物もたくさん屋根に乗せてね。途中立ち寄ったラスベガスのカジノは20歳以上じゃないと入れなくて、僕は19歳だったので親父が代わりに「ちょっと稼いでくる」と言って、戻ってきたら旅費を全部使ってしまっていて(笑)。そこからは一気に貧乏旅行ですよ。
スピード違反で捕まったり、途中でワガママ言ってスキー場に寄ったら翌日から吹雪で動けなかったり、トラブルも不便も多かったけどいい思い出になりました。
シカゴには2週間ほどで着いて、おばあちゃんの家では、おばあちゃんとお父さんの3人の兄弟と、その子どもも「15年ぶりに僕が帰ってくる」ということで、みんなで待っていてくれたんです。ものすごい数の人が僕のことを「家族」として迎え入れてくれて! アメリカの人ってハグとかキスとか日本よりもすごく愛情表現があるじゃないですか。それを15年ぶん受けたんです。
「僕はこれからひとりで一生生きていくと思っていたけど、こんなにたくさんの家族がいたんだ」って思うと、なんか泣けてきちゃって。そのときに気がついたんです。「この『家族』の中にお母さんだけいないのは悲しい」って。
それから残りの10カ月はおばあちゃんの家で過ごしました。おばあちゃんとコスモスを種から育てたりもして、最初は面倒だったけど手をかけて花が咲いた瞬間、花を心からキレイだと感じたんです。
そのとき、おばあちゃんが言った「植物も人間と一緒でね。愛情を込めて育てれば、必ずきれいな花が咲くものなのよ」という言葉がずっと心に残っています。
母への謝罪
後日、パスポートがやっと出来上がっていよいよ帰るというときに、父が「最後だから言うけど、お前がアメリカに来ることと、空港で俺がお前を待っていたのは全部お母さんが仕組んだんだぞ」と。「占い師に頼んだだけでなく、お前のアメリカでの滞在費は全部お母さんが出していたんだ。食費はもちろん、誕生日プレゼントも全部」って。お父さんはその大事なお金をラスベガスでスッちゃったんだけど(笑)。
お母さんは、僕とは離れていても、母としての仕事を続けていてくれたんですよね。その話を聞いたときに「僕はなんて取り返しのつかないことをやってしまったんだろう」と…。感動で涙が止まらなくて、父にお願いして母に電話をかけてもらうことにしました。
母親との電話で「今までごめん」ってあやまって。「俺、もうヤンキーやめたから」ということも伝えて。アメリカにいる間に父親が俳優として活躍する姿を見て決意したんですけど「日本に帰ったら、また芸能の仕事をがんばりたい」ということも話してね。
あと母に「僕は意思が弱いから、日本の地元に戻ったら、たぶん本当にどうしようもない道に行っちゃうかもしれないから、母と同じところで一緒に暮らしたい」と言ったんです。そこが僕の人生の大きな転機になりました。
ユージさんは離れて暮らすようになっても陰で支え続けてくれたお母さんや、お父さんとの二人旅、おばあちゃんの家でのたくさんの家族との暮らしで「人は一人で生きているようで、じつはたくさんの誰かに支えられている」ことを実感したのではないでしょうか。とくに、おばあちゃんの家で花を自ら育てたことは、おそらくユージさん自身が初めて「何かに愛情を注いだ」体験でしょう。見事に咲いた花を目の前にしたときのおばあちゃんの言葉こそ、家族への「見返りを求めない」愛情そのもので、それがユージさんの冷たく閉ざした心を溶かしていったのだと思います。後編では、帰国したユージさんに「家族」ができるまでと、現在のお仕事について語っていただきます。

撮影・根津理恵子








