中学受験が盛り上がっているのは、ここ数年のこと。そう感じている保護者も多いのではないでしょうか? ところが35年前の1991年、ある人気の中学受験塾には、1つの校舎に1,300人の小学生が通っていました。連載「いこーよ学びトーク」の「中学受験の歴史 1991〜2026」では、中学受験と私立学校を30年以上見てきた教育アナリストの井上修さんが、自身の体験をもとに中学受験の移り変わりをつづります。第1回は、新卒で中学受験塾に入った井上さんの「カルチャーショック」のお話。それだけの子どもが集まる校舎の裏側では、どんなことが起きていたのでしょうか?
この連載を書いているのは…

井上修さん(教育アナリスト)
1967年生まれ。1991年に横浜国立大学を卒業し、同年日能研に入社。中学受験雑誌「進学レーダー」の編集長、入試情報室室長などを経て、2025年5月に日能研を退社。同年6月より茗溪学園の校長補佐を務める。教育アナリストとして、中学受験や中高一貫校の教育、大学入試について調査・発信を続けている。
※本連載は私学の創立、入試事象などは事実ですが、人物関係や会社関係はフィクションも含まれます。
①中学入試というカルチャーショック…1991年
「なんであなた、受けに来たの?」
1991年4月、晴れて私はN塾に新卒で入社した。新卒とは言うものの、大学時代に神奈川のSゼミナールでずっと働いていたこと、そして小学校2年の時から高校卒業までほぼずっと塾には通っていたため、「塾」という世界にはとても慣れ親しんでいた。ただし、私自身は地方の公立中高の出身。Sゼミナールも高校受験主体の塾であったため(一部で中学受験にも対応していたが、あくまでも余技だった)、中学受験に関しては未知だった。そのため「中学受験とはどういう世界観なのだろうか」という興味があった。
さらに、N塾に関しては、とかく噂のある塾であった。その噂とは「とてつもなく給料が高くてボーナスは札束で立つほど」とか「出退社はタクシー」とかものすごい話ばかりであった。もっとも、当時はSNSはおろか、インターネットも存在していなかったので、噂とは口コミだった。それもあって、その真偽を確かめたいという思いもあり、とりあえず入社試験を受けに行ってみた。するといきなり社長と専務の面接。さらに専務は開口一番、「なんであなた、受けに来たの?」と(笑)。というのも、私が就職活動をしていた1990年というのは、バブル後半にあたり、非常に就職しやすい時期だったからだ。そんな時に好き好んで中学受験塾に入ろうとする人なんて、ほぼいなかったわけですね。今以上に学習塾は社会的にはあまり認知されていなかったのもある。
ちなみに私は大学が楽しすぎたので結局学部に5年いたのだが、講義はかなり真面目に受けていたので、成績はとても良かった。そのこともあり、専務は私の成績表を見て非常に不思議がり、「なんでこんなに成績いいんだ?」と呟いていた。確か社長は隣でただニコニコ微笑んでいたな。そんなわけで、すんなり内定となり、入社前の少しばかり研修的なバイトを経て、前述のように4月1日に入社式を終え、すぐに4月2日から仮配属となった。当時は入社後の研修なんて存在しなかった。N塾時代よく聞いたフレーズが「ちょっと教えてすぐ現場」。個人的には私は長く研修やるより、この方がいいとは思いますね。
さて、仮配属はどこに行くのかと思ったら、なんと横浜の上大岡であった。これにはビックリ。Sゼミナール時代は港南区の上永谷がメイン教室であり港南台や洋光台あたりは土地勘があり、まさに横浜南部はマイフィールドであったからだ。そんなわけで「こりゃ入社してもしばらくは大丈夫だろう」と安心していたら、これがあなた、まったく大丈夫でなかったのだ。それまで持っていた学習塾、受験に対する概念はすべて覆されることになる。
なんと上大岡校は1300名だった
当時のN塾の上大岡校は、なんと生徒数が1300名もいたのだ。教室は二階建てのそれほど大きくはないスペースに、夕方になると数百人の小学生がやってきて、まるで朝のラッシュのように教室に入っていく。小学6年生は一学年で確か10クラスほどあったので、6年生の日はともかく大変だった。私の仕事の一つが子どもたちを教室にともかく入れるということであった。子どもたちはとても元気がよく、ものすごい勢いで教室に入ろうとするのを「交通整理」していた。ラッシュ時の駅員と仕事は似ていた。そういえば、あまりの勢いに私のワイシャツをつかんだ子どもがいて、ポケットが破れたこともあった。
また、クラス数も多いので、当然講師数も多く、講師が遅刻したり、来ないこともあった。そんな時は責任者から、「ちょっと教室入ってつないでおいて」とか言われるわけだった(笑)。まあ、これはSゼミナールで長く講師をしていたのでなんとかなりましたけどね。
さて、ここで大きなポイントがある。教室で教える講師は、ふだんは教室にいないのだ。教室に常駐しているのは、教室を運営するスタッフであり、そのスタッフは基本授業をやらずに、教室の管理と営業を専門としていた。各教室にいるメンバーが授業も運営も営業もやるSゼミナールとは大きく違うのだった。
実はこの分業体制がN塾の大きな特徴であった。「教室運営」、「教務」が完全に分離していた。「生徒がなんとなく自然に集まって、それを講師に割り振って、授業を実施して儲ける」という原始的な学習塾の形態ではなかった。当時はSゼミナールに限らず、特に高校受験塾は明確な経営戦略を取るケースは少なかったと思う。
そして、N塾が他塾と大きく異なるのが、「教室運営」「教務」そして、もう一つ重要な部門として「情報」があることであった。私は、この「情報」に強く惹かれていくことになるのだが、それは次回に説明しよう。
…とまあ、こんな感じで中学受験の塾の話と中学受験、私学の話を時系列で書いて行こうと思うので、ぜひお付き合いください。
1991年は、こんな年
1月に湾岸戦争が始まり、同じ月にドラマ「東京ラブストーリー」が放送スタート。5月にはディスコ「ジュリアナ東京」がオープンし、年末にはソ連が崩壊しました。子どもたちの間では、前年の秋に発売されたスーパーファミコンが大人気。株価はすでに下がり始めていて、バブル景気が終わりへ向かう時期でもありました。
学校では、翌1992年9月から月に1回、第2土曜日が休みになる「学校週5日制」が始まります。大学受験は、18歳人口が1992年に約205万人でピークを迎える激戦のさなか。中学受験も、首都圏の受験者数は約5万1,000人。過去最多となった2023年の約5万2,600人と、ほぼ同じ規模でした。
いまの保護者へ
講師が来ない日は、入社したばかりの井上さんが教室に入って授業をつなぐ。勢いあまった子どもに、ワイシャツのポケットを破られる。1つの校舎に1,300人の小学生が通う現場は、決まった仕組みだけでなく、その場その場の機転で回っていたようです。わが子が通う塾の裏側も、のぞいてみると意外ににぎやかなのかもしれません。中学受験の話というと、つい勉強や入試の結果に目が向きがち。この連載では、そんな中学受験の裏側も一緒に楽しんでもらえたらと思っています。次回は、井上さんが強くひかれた「情報」の部門のお話。中学受験塾の「情報」とは、いったいどんな仕事だったのでしょうか?(編集部)
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